2021/04/22
浄土真宗の信者(門徒)を揶揄する言葉に
『 門徒物知らず 』((もんと ものしらず) という言葉がありますが、ご存知でしょうか?
この言葉には、諸説ありますが
他宗の仏教信者が、浄土真宗の門徒(信者)に対して、「仏教の作法を知らない」と批判する際に使われる言葉
これは門徒は何も知らないと決めつける、ずいぶん失礼な言葉です。
本当に、浄土真宗の信者(門徒)は何も知らず、世間知らずなのでしょうか?
一例として、仏教の他の宗派では、お盆や、お彼岸、ご法事の際に、
お盆には盆提灯を飾り、精霊棚をつくり、ご法事には御霊具膳にお供えをしたりして、追善供養(ついぜんくよう)をして先祖供養をします。
追善供養とは、故人の成仏を祈って家族や僧侶がお経を読んで、功徳を積むことを指します。
その功徳が自分に返ってくると考えられています
浄土真宗では、このような先祖供養はいたしません
浄土真宗では、家族や僧侶の追善供養に関係なく
人は亡くなれば、必ず往生して仏となるので、亡くなった方を供養と言う概念がないからです。
そのため、お盆に先祖をお迎えするために、盆提灯を飾ったり、迎え火をしたり、
先祖供養のための、精霊棚や御霊具膳のお供えもなく、ごく普通です。
※ 浄土真宗が、決して、先祖や故人をおろそかにしているのではありません
門徒にとっても、お盆やご法事は、先に往かれた方々を偲び感謝し、そのご縁で
住職を通じて、阿弥陀様や親鸞聖人のありがたい教えを聞き、自分自身を改めて見つめ直す大切な仏事です。
門徒は往生即成仏の教えを実践しているのです
往生即成仏 亡くなると同時に阿弥陀様に救われて浄土に生まれ仏となるという、教え
浄土真宗では、「南無阿弥陀仏」と唱えますが、
これは、阿弥陀様に南無(= 身をゆだねる おまかせするの意味)、すなわち 阿弥陀様に自信の身をゆだねれば の意味です
浄土真宗の教えは「南無阿弥陀仏」と唱えれば、
阿弥陀仏の方から願って、阿弥陀様のお力で「悩み苦しむあらゆる人々を救いたい」と願われる『他力本願』で
必ず阿弥陀様が 極楽浄土に連れて行ってくれて、仏になることが、約束される『 往生即成仏 』の教えです。
他力本願というと、他人の力をあてにする、他人まかせという意味と捉えがちですが、
浄土真宗でいう、他力本願とは、私の方から祈って救われるのではなく、むしろ逆に、阿弥陀様のほうから願って(本願)、 阿弥陀様のお力、お慈悲 (他力)によって救っていただけるという考え方です。
そのため、亡くなられた方の霊が、極楽浄土に行けず、この世に彷徨ったり、先祖が帰ってくるという概念がありません。
まして、ご先祖がお盆や特定の時期だけ帰ってこられるという非現実的な概念もありません。
そのために、盆提灯は必要ありませんが、お仏壇も周りに置く、提灯も、迎え火としてではなく、お仏壇の灯篭と同様、照らす目的であれば、差し支えありません。
ただし、家の軒先に掛ける迎い提灯は避けた方が良いです。
『ご冥福をお祈りいたします』と、葬儀の際に、よく言う決まり文句ですが、
浄土真宗では、ご冥福をお祈りいたしますとは言いません。
※ ご冥福とは、死後の幸福のことで「死後、迷わず幸福になれますように」と言う意味で、往生即成仏の教えから
決して彷徨うことがないからです。
目に見える形で先祖供養をしてないから、門徒は世間知らずで、仏教の作法を知らないのではなく、門徒は正しく浄土真宗の往生即成仏の教え を理解し実行しているのです
「門徒もの知らず」の語源は、もともと「門徒、物忌み知らず」であったとも言われています。
物忌=罪悪、疫病、死をけがれとして、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けることです
例えば暦の日の吉凶があります。
身近な例を挙げると
- 友引の日に葬儀を出すと、友をひき 縁者に死を招くとのでしてはいけない
- 四十九日」が三月にまたがるとよくないことが起こる
友引や仏滅は中国の六曜の1つで14世紀の鎌倉時代に伝来したと伝えられています
仏滅や友引という、仏事と関連のあるように見える言葉が多く使われているが、仏教との関係ありません。- 友引はもともと、「共引=引き分けの意」からきたもので、「友を引く(連れていく)」という意味ではないのですが、
「共」の読み方が「友」と同じことから、迷信が広まったとされています。 - 始終苦しみが身に付く→四十九(しじゅうく)日が三月(みづく)」という語呂合わせからきた迷信。
古来より、日本では、神の信仰、六曜などの暦に記載される日時・方位などの吉凶、その日の運勢を占ったり
仏教と、様々な信仰が折り重なって、日本独自の信仰を形成しています
そのため古代より、神や仏に崇拝し信仰し、死への恐怖や、見えないモノへの恐れから、『◯◯をすると、縁起が悪い、バチがあたる』として、物忌や迷信や占いを信じ、こうした型を守ってきました。
これらは、死= 不浄、けがれたものという物忌が、人間の日常生活を、神や霊魂といった目に見えないものが支配している、
と信じて疑わなかった古代人の感覚に起源しています。
物忌(ものいみ)=死をけがれとして忌避けるますが、これは神道の考えであり、仏教とは関係ありません。
神道では死は穢れですので、神社で葬儀を行うことはありませんし、喪が明けるまでは神社に参拝することもできません。
昔、葬儀の時、参列者への、会葬礼状に清めの塩を添えてあって、帰宅すると、玄関前で振って身を清め、
汚れを取り払っつてから、家に入っていた時代がありましたが、神道や中国の占い(六曜)と合流して、
もっともらしい形となり、それが俗信という形で残っていましたが、今ではこの風習もなくなりました。
仏教では、占いを盲信して本質がおろそかになれば、かえって悪い結果になるとして、占いを否定しています。
とはいえ、仏教徒であっても、縁起や迷信で悪いと言われれば、これを避けるのは当然かもしれません。
門徒は、迷信や俗説などに惑わされず、阿弥陀様の教えのみ信じています。
仏教では、占いを盲信して本質がおろそかになれば、かえって悪い結果になるとして、占いを否定していますが
特に浄土真宗では親鸞が「日の吉凶を選ぶことはよくない」と説き、迷信、俗信一般を否定して、
六曜が直接原因として物事を左右することはないと説いています。
浄土真宗は日の吉凶などといった迷信・俗信にとらわれたり、占いや厄よけなどの俗信や迷信に惑わされず、
合理性を重んじ、ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、誰もが迷わず極楽浄土に行ける
と説く非常に明解で判りやすく、教えも簡潔であることから近世には庶民に広く受け入れられました。
しかし、日本の仏教の中でも比較的新しく 当時としては、新興宗教の浄土真宗の行いが、他の宗派からすると、
門徒だけは知らん顔をしていて、よくも平気でおられたものだという驚きだったかも知れません。
まとめ :宗派が違えば、教えや考え方も違います
浄土真宗は、古来日本に伝わっている、物忌(ものいみ) 、迷信、占いや厄よけを気にせず、日常を送り
お盆だからといって、先祖供養のために、御霊具膳にお供えをしたり、迎え火をしたり、盆提灯を飾ったりなど、
特段、お盆だから、特に何もしてないように見えるからか?先祖を供養しない(先祖をおそそかにしているように思える)事が
『 門徒物知らず 』 や、『 門徒、物忌み知らず 』 と門徒は何も知らないと揶揄する言葉が生まれたのではないでしょうか?
先祖は、供養せずとも、すでにほとけ様にならているわけで、物忌(ものいみ) 、迷信、占いや厄よけに惑わされず、
ひたすら、「南無阿弥陀仏」と 阿弥陀様に身をゆだね、阿弥陀様に救われる事を願う 信仰を全うしているのであって、
決して 世間知らず ではなく、門徒として、浄土真宗の教えを理解し実践しているのです。
同じお釈迦様の教えである仏教でもさまざまな宗派があり、宗派が異なればそれぞれ教えが異なります。
作法やしきたりも、当然異なります。
教えが異なれば、作法などが違うと言う事を理解しないといけません